3月11日
あれから、1年がたちました。
皆さまにとって、あっという間の1年でしたか?それとも、すごく長い1年でしたか?
僕にとってはすごく長い、長い1年でした。
震災後、約1,500人もの新患の患者さんとの出会いがありました。
その中にはおそらく震災がなければ、正確に言えば原発事故が無ければ生涯出会うことがなかっただろう双葉地方の患者さんたちもいます。
郡山に住んでいる僕でも眼に見えない敵との戦いは正直、もうたくさん、いい加減にしてくれと言いたいのに生まれ育った故郷を追われ、慣れない土地で一生懸命、頑張っています。
きっと、悲しくて、苦しいだろうにいつもニコニコしています。そんな彼女たちも今年の寒さと雪には大変困っているようです。そして、1年が近づくにつれ、彼女たちの中には顔から少し笑顔が無くなってしまう方もいました。
あるおばあちゃんは「仮設住宅に一人でいるとつらくなるんだ。周りには同じ町の人とと言っても知らない人ばかりだし、ほとんど話をすることもないし、先生と話すことができて、久しぶりに誰かと話したよ」と言っていました。僕は「仮設住所から散歩がてら、クリニックに来てお茶でも飲んで、スタッフと話したらいいんだから・・」と言いました。何の励ましにもなれない、役に立つこともできない自分が情けないです。
ある患者さんはいつも長くお話をしていきます。前回来院されたとき、僕が「もし、叶うことができるのであれば去年の3月11日の朝に時間が戻ってほしい」と愚痴をこぼしたところ、僕なんかの苦しみなんかちっぽけなのかも知れない、たぶんものすごく大変な思いをしていたのでしょう、彼女の眼から「大きな涙」があふれ出してしまいました。なんて、バカなことを言ってしまったと反省しました。
そんな、双葉地方の患者さんたちがほとんどお世話になったと思われる浪江の産婦人科医、今村先生との出会いもありました。出会いと言ってもいまだお会いしていませんし、どんなお顔をされているのかも知りません。昨年、震災直後の3月末に双葉地方初めての患者さんが来院されました。妊娠初期の方で今村先生が診ておられた方です。たまたま、その方が今村先生の携帯電話番号を知っておられたので早速、電話をしてみました。すると「ありがとう。僕が診ていた患者さんの消息が分かった第1号だよ」先生はすごくうれしそうでした。その妊婦さんとも懐かしそうにお話をされていました。先生に「彼女たちが僕の近くにいる間は責任を持って診療にあたります。そして、先生が浪江に戻るときには必ずお返しします」と話しました。先生は「ありがとう。・・・でも、無理だよ。」と言っていました。その時はその「無理だよ」の意味が正直、ピンと来なかったけどあれから1年、「今は重い言葉だな」と思っています。
その後も今村先生が診ておられた患者さんがたくさん来院され、最初のうちは電話で報告していました。先生はカルテも見てないのにお一人、お一人のことを詳細に覚えていました。患者さんたちもすごく先生のことを慕っていました。僕も今村先生のような産婦人科医になりたいと思います。
そして、先生からお預かりした皆さまは僕の近くにいる間は責任を持って診ていきたいと思います。
今村先生は現在、二本松にある浪江の仮設住宅の津島診療所での診療と北福島医療センターで健診業務にあたっておられるそうです。
この1年間、僕にとって何が1番苦しかったか?それはいろいろな方との別れです。
福島県で生まれて福島県が大好きで、大好きでたまらなかった人が福島県からたくさん流出しました。おそらく、役所に転出届を出している人、役所が把握している人の他にもたくさんの方が流出していると思われます。もちろん、福島に転入して来られる方もいますがそのほとんどの方は家族を置いて単身で来ておられる方がほとんどだと思います。
福島県、特に福島市や郡山市では出産数が減っています。こんなことでは未来の福島県はどうなってしまうのでしょうか?国も県も市も行政は何をしているのでしょうか?安心・安全とは言わなくても「日常」を感じることができる生活を取り戻せるように努力してほしいです。
愚痴ばかり言っていても前には進みません。愚痴は今日までにして、人(行政)をあてにせず、自分にできることから一歩ずつ、いや、半歩ずつでも前進していかねば、福島県に未来を取り戻さなければ・・・。